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弁護士の日記帳

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座右の書②

「全盲の僕が弁護士になった理由-あきらめない心の鍛え方」(大胡田誠・日経BP社・1500円)

 

司法研修所の廊下で何度か彼を見かけたことがある。

クラスが違ったので接点はなかったが、全盲のハンディを乗り越えて司法試験に合格するなんて凄い奴がいるものだと感じていた。

その時は、ただそれだけのことだったが、今日、スーツに身を包んだ彼が白杖を持って堂々と歩く写真が表紙を飾っている本を見つけ、すぐに買って帰り、一気に読んだ。

 

うんざりするほど膨大な記録を読み、たくさんの判例を調べ、長文の書面を書かなければならない弁護士の業務において目が見えないことがどれほどのハンディとなるか、同業者として痛いほどよくわかるつもりだ。

が、大胡田誠弁護士は、「きちんと準備をしてきた人間にとっては、『もうだめだ』と思ったときが、限界の先にある自分に最も近付いた瞬間なのだと思う。

それはとても怖い瞬間かもしれないが、見方を変えれば、古い殻を脱いでもう一回り大きくなるチャンスがすぐ手の届くところまで来ているということでもある。

弁護士の仕事をしていて、これまで何度もプレッシャーで押しつぶされそうになったけれど、そういう時は、自分にこのことを言い聞かせて、なんとか乗り越えてきた。」

のだという。

そして、「だから無理」より「じゃあどうする」のほうが面白い、と言ってのける。

全盲の妻とともに子育てにも奮闘しているとのことで、仕事も家庭も充実しているようだ。

 

同期にこんな立派な弁護士がいるのだから、自分も頑張らなければ。

励まされる一冊である。

(横井盛也)

座右の銘②

▼…「人間関係は、初めて出会った時の力関係が永遠に続く。君たちが将来、どんなに偉くなっても、僕が教官で、君たちが教え子だったという力関係だけは変わらない。」

司法研修所の教官が最終講義で語った言葉だが、温厚で人間味溢れるその教官の語った意味は、「俺は教官だから偉い」というものでは決してなく、今後とも長幼の序をわきまえることは大切だよ、偉くなったと思って天狗になっては駄目だよ、とユーモアたっぷりに説諭するものであった。

琴線に触れ妙に感じ入ったので、その時の教官の表情や教室内で自分が座っていた位置まで今でも鮮明に覚えている。

 

▼…35年ぶりに小学校の同窓会があった。悪童の極みだった私は、かなり逡巡し躊躇したものの、当時の不行跡を詫びる絶好の機会でもあると考え、出席することにした。

校舎建替えを聞きつけた化学者「ナッカン」が思い出の校舎をもう一度みんなで見ておこうと企画し、持ち前の調査能力で級友の現住所や勤務先を探り出し、手当り次第に連絡してくれた。6年2組の38人のうち集まったのは11人とクラス担任の先生、音楽の先生の計13人。35年間の出来事や近況、当時の思い出話などに大輪の花が咲き、感動的な1日となった。

 

企業の研究者として様々な発明をしている化学者「ナッカン」

数々の映画に出演して舞台でも活躍している俳優「タニヤン」

政府系の銀行の課長をしている「ウメッコ」

数冊の著書を出版し雑誌の連載記事なども手掛ける「ブンガクショウジョ」

世界を股にかける貿易会社の専務「ナガチン」

地元の銀行に勤める「トックン」

酒が飲めないのに酒造会社で営業をしている「シホドン」

旅行会社の添乗員として世界を回っている「キョウタ」

フラワーアレンジメントの教室を大規模に展開している「ハツミ」

夫が小学校の先生をしているという「チエコ」 (以上、順不同)

そして今は弁護士をしているということで皆が驚いた元悪童の私「よっこん」。

担任の「ハルナ」先生は、数年前に定年退職され、悠々自適の生活を送っておられるといい、

音楽の「ウエキ」先生は、音楽教室を主宰しておられるとのことであった。

最初は、誰が誰だかわからないくらい変貌していることにとまどい、皆それぞれに年輪を重ね立派になっていることに驚いた。飲んで話をするうちに、各人に昔日の面影が色濃く残っていることを発見し、さらにまた驚いた。

 

▼…遡ること37年(5年と6年はクラス替えがなかった)。4月のとある朝。教室で、初めて皆が出会った時、ハルナ先生やウエキ先生は我々の先生であり、我々生徒は先生を尊敬していた。我々生徒は同じクラスの仲間としてお互い対等の力関係で、あるときは喧嘩をし、そしてあるときは分かり合った。

卒業から35年、先生に対する尊敬の念、級友同士の対等の仲間意識が瞬時によみがえり、最初に出会った時の力関係が微動だに変化していないことに気づいた同窓会であった。

冒頭の教官の言葉を思い出し、再び感じ入った。

(横井盛也)

 

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座右の書①

「ヒツジで終わる習慣、ライオンに変わる決断-自分にイノベーションを起こそう!」(千田琢哉著・実務教育出版)。

 

とにかく文字が少なく、あっという間に読めてしまう。その意味で1200円はちょっと高い気がするが、内容の濃さからすれば安い買い物だと思う。手元に置いて、何度も読み返してみる価値がある。折に触れ、「自分は今、ヒツジなのではないか。よしライオンになろう。」という気になれたらしめたものである。ひょっとして平々凡々の人生を劇的に変えられるのではないか、そのためのヒントが詰まった書なのではないか、と思わせる一冊である。

 

著者の人間社会を透徹する観察眼は確かなようだ。ヒツジとライオンの対比は非情な程に厳しい指摘に満ちている。

例えば、「リストラ候補まっしぐらのヒツジは、サボることばかり考えている。……一生懸命に仕事をするふりをしながら、実は単にネットサーフィンをしているだけなのだ。ビジネスの現場にパソコンが浸透してきたおかげで、ヒツジたちはとても助かっている。……ライオンは、より深い人間観察の補助としてインターネットを活用する。」。

 

訴状や準備書面を書いているふりをして事務所でブログを書いている。くだらないブログを書く暇があったら仕事をしろ!との声が聞こえてきそうだ。

あっ、自分は今、ヒツジなのではないか。よし、ライオンになろう。

 

人生訓の玉手箱。一読をお勧めします。

(横井盛也)

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国家賠償請求訴訟

ある日、全く知らない凶悪事件の犯人として逮捕され、起訴され、ずっと塀の中で無実を晴らすための裁判が8か月。どうやら証言した目撃者たちこそが真犯人らしい。判決は「被告人は無罪」。ドラマのようですが、実際に私が弁護人を務めた事件の実話です。

 

元被告人の依頼を受け、先日、大阪地裁に国家賠償請求訴訟を提起しました。たとえ無罪判決が確定したとしても、元被告人は、心身に多大な苦痛を受けたはずです。2度と冤罪事件を生まないためにも、国の責任を追及し、はっきりと白黒をつけるべきだと考えました。

 

では、誤って起訴した国(検察官)の責任が問えるのでしょうか。違和感なく受け入れられるかどうかは疑問ですが、実務運用の基礎となる最高裁判例は次のように言っています。「刑事事件において無罪の判決が確定したという事実だけで直ちに公訴提起が違法になるということはなく、公訴提起時の検察官の心証は、その性質上、判決時における裁判官の心証とは異なり、公訴提起時において現に収集された証拠資料及び通常要求される捜査によって収集可能であった証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により公訴を提起し、裁判の結果、有罪と認められる嫌疑があれば足りるものと解され、たとえ無罪になっても公訴提起に違法はないというべきである(昭和53年10月20日最高裁第2小法廷判決、平成元年6月29日同第1小法廷判決)」

 

そして、実際の裁判では、次のように判断されています。「検察官の公訴提起時の証拠の評価が、経験則や論理に照らし、客観的に見て、合理性を欠いているものではないと認められる場合、公訴提起に過失があるとはいえない。その反面、検察官の公訴提起に至った際の証拠の評価が、客観的に見て、合理性を欠いているものと認められる場合は、過失があり、違法となる。」

 

つまり、国家賠償請求訴訟においては、検察官の起訴の際の証拠の評価に合理性があったか否かが争点となります。私は、今回の件では検察官の起訴時の証拠評価は、経験則や論理に反し合理性を欠いていたし、その立証は十分可能であると確信しています。

市民運動などとは縁がなく、初めての行政訴訟。国を相手取って裁判なんて、お上に対する反逆、謀反? いやいやこれもお国のため。全力で闘います。

(横井盛也)

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座右の銘①

「指掛りたる一戦を返さぬを肝要とす」――上杉謙信

戦国時代の義の聖将上杉謙信が武田信玄の戦術と比して自身の信念を語った言葉とか。国取りの野心を抱かず目の前の一戦に全身全霊集中することが大切という意味らしい。

弁護士の仕事にも相通ずる至言。自らに諭す。野心を抱かず、目の前にあるその事件の解決に全力を注ぐことこそが肝要と。

(横井盛也)

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