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弁護士の日記帳

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報道被害-メディアの犯罪

 

ある自治体の市民法律相談で中年男性から「珍しい名字なので姓を変えたい」との相談を受けたことがあります。

刑務所から社会復帰して必死になって就職先を探し、ようやく内定を得たのに、勤務直前になって不採用の通知が入ったとのこと。男性は、「パソコンに名前を打ち込むと、珍しい名字だから事件の新聞記事が直ぐにヒットしてしまう。このままでは何十年たっても就職できない…」と落ち込んだ様子でした。

 

メディアにとっては日常的なありふれた報道の1つでも、個人にとってはとんでもなく非日常的で必要以上の大きな被害をもたらすことがある、という一例です。

犯罪者であっても、更生し、刑期を終えた後は、平穏な生活を営む権利があるはずです。

事件報道が、悔い改めた犯罪者の社会復帰や更生の妨げになるようなことがあってはなりません。

 

マスコミは、実名報道主義を堅持し、その理由を権力を監視するためと説明していますが、「驕り」というほかないと思います。

そもそもマスコミに権力の監視機能についての期待が存在するのでしょうか。

権力の監視といいながら、センセーショナルで大衆受けする事件(業界用語でいえば「面白い事件」)を選んで、怒涛の如く取材合戦を繰り広げて速報性を競うというのが実態で、実名での報道にこだわるのも、その方が記事にリアリティーが出るからに過ぎません。

 

逮捕された容疑者や被害者の実名を報道することが、なぜ権力の監視につながるのでしょうか。

起訴されれば、法に則って公開法廷で裁判が行われていますし、弁護人のチェックも働きます。

逮捕の段階であたかも真犯人であるかのように決めつけて容疑者の実名や顔写真を一斉に報道するマスコミにこそ大きな問題があるのではないでしょうか。

まして被害者の実名や顔写真の掲載することなどは、明らかに名誉、プライバシーや肖像権の侵害です。

実名を報道することについては、公共性や公益目的といった観点からみても何らの必然性も見い出せません。

 

ぜひとも事件報道の匿名化が必要です。

メディアにその動きはありません。現状では、取材や報道によって財産的・精神的な損害を受けた場合、躊躇せず積極的に損害賠償請求訴訟を提起していくほかなく、またそれが最も効果的なのだと思います。

(横井盛也)

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1票の格差

投票価値に最大5倍の格差が生じていた2010年7月の参院選について、最高裁は先日、選挙無効の請求は退けたものの「違憲状態」と判断しました。

最高裁は、これまでにも衆院選、参院選を問わず同様の裁判で、国会に対し、現行の定数配分が投票権の不平等をもたらしているとして1票の格差の抜本改正を迫り続けています。今回もその流れに沿った予想通りの判決であり、「またか」といった感じです。

 

「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」(憲法43条)。

「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」(憲法14条1項)。

選挙権は民主国家において最も基本的といえる大切な権利であり、平等の重みの1票の保障を目指すべきことは当然です。

 

しかし、私は、最高裁の一連の判決に違和感を覚えます。

国会の裁量を余りにも狭く捉え過ぎているのではないかという点とこのまま国会の不作為が続けば近い将来、選挙無効の判決もありうるとの脅迫的文言で抜本改正を迫るのは行き過ぎなのではないかという点についてです。

 

最高裁は、今回の判決で参院選について「都道府県ごとの選挙区を改める必要がある」などと述べ、現在の仕組みそのものの見直しを求めています。

例えば、鳥取県の定数を1とすれば、神奈川県は30人を当選させなければならないといった計算になることから、そもそも都道府県を単位とした定数配分はやめるべきだといっているのです。

また、平成23年3月23日の最高裁判決では、衆院選について、各都道府県にあらかじめ定数1を配分する1人別枠方式は平等の要請に反して合理的ではないとする判断を示しています。

 

最高裁は、都道府県を軽視しているようです。

私は、都道府県は選挙区割りの際に無視することのできない基礎的な要素の1つであり、人口のみならず、選挙区の面積、選挙区の地域としてのまとまり、人口密度、国政の中心地からの距離等についての一定の配慮は許されるべきであり、具体的な定数配分は現憲法下において国会の広い裁量にゆだねられるべきである、と思います。

裁判所も北海道を除いて各都道府県に1つの地方裁判所と家庭裁判所を設置しています。

行政の多くも各都道府県単位で担われていますし、住民自治の観点からも都道府県は重要な区割りとなっています。

 

人口の地域間格差は相当なもので、平等な重みの1票を保障する選挙区割りをすることはたやすいことではありません。

例えば、2012年夏の高校野球では、鳥取県は25校、大阪府は181校で地区予選が行われました。鳥取県は5回(又は4回)勝てば優勝、大阪府は8回(又は7回)勝たなければ、甲子園に出場できないのです。大阪府で5回戦を突破したチームは8校。実に8倍の地域間格差が生じています。

最高裁は、形式的な平等を重視する余り、国会の裁量権を狭く解し、定数配分を厳格に考え過ぎているのではないでしょうか。

 

三権分立の制度は、立法、行政、司法がそれぞれの権力の独走を防止するため互いに牽制しあうという国の重要かつ根本的な仕組みであり、司法の違憲立法審査権を立法府が無視するといった状態が長く続くことは決して好ましいことではありません。

最高裁が選挙無効の判決もありうるなどといった脅迫めいた強い文言を使えば使うほど、かえって逆に司法の権威を貶めはしないかと心配です。

 

ついでに言っておくと、定数配分の改正は、現職議員の首がかった問題であり、かつ党利党略も絡んで改革が容易に進みませんが、これは構造的な問題によるところが大きいと思います。

「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」(憲法47条)、

「両議院の議員の定数は、法律でこれを定める。」(憲法43条2項)、

「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(憲法41条)、

とされていますが、議員の定数や選挙区割は独立した第三者機関が決めるべきあり、そもそも国会が決めると定めている憲法自体に欠陥があるのではないでしょうか。

(横井盛也)

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浮きこぼれの時代

 

親の「頑張れ」の一言に逆上し、事件を起こした少年がいました。

「頑張れ」という言葉は、あと一歩で目標に到達するという状況で使って初めて励ましとなるのであり、次の一歩すら見えないという状況において使うことは残酷な否定にしかなりません。

「頑張れ」には、「このままではいけない」という意味が多分に含まれているからです。

先行き真っ暗という状況の中で、「頑張れ」という現実を突きつけられて、心が折れないはずはありません。

(ただし、この場合の「頑張れ」はキレるきっかけに過ぎず、背景には、様々な原因や理由が存在します。)

 

これまで少年事件の弁護人や付添人を数多く手がけてきました。

そしていろいろな少年に出会い、様々なことを考えさせられてきました。

 

人は一人では生きられません。生まれた時から人間関係の網の目を広げて行き、その網に支えられるように生きていきます。

でも、その人間関係を構築する能力は人それぞれであり、どうしてもうまくいかない場合もあります。

 

核家族化が進み、異なる世代間の交流で〈守る〉〈守られる〉といった関係を構築する機会がめっきり少なくなった時代です。

同世代が集う閉じられた学校の中では、〈競う〉か〈群れる〉かの選択肢しかありません。

群れにうまく順応できなかった場合、とたんに居場所を失い、浮きこぼれてしまいます。

 

第1次産業や第2次産業が中心だった頃は自然と向きったり機械と相対したりすることで対人関係から逃れる時間を持つことが容易でした。

しかし、第3次産業が中心の現代においては、複雑な対人関係を抜きにして生きていくことは不可能です。

対人関係をうまく構築できなかった場合、とたんに居場所を失い、浮きこぼれてしまいます。

 

現代ほど対人関係のストレスに悩まされる時代はありません。

そして人間関係の輪の中から浮きこぼれたときに悲劇が起きます。

非行、いじめ、自殺といった問題の根には、こんなディス・コミュニケーションの問題が深く関わっていると私は考えています。

 

では、どうしたらよいのでしょうか。

依頼者とともに答えを求めて、悩み続けたいと思います。

(横井盛也)

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「ノルウェイの森」 村上春樹著

週末に映画「ノルウェイの森」(原作:村上春樹)を見たのですが、その余韻は半端なものではありませんでした。

喪失感や哀切といったものが、心の中に深く分け入り、沁み込んできたという感じです。

混乱する精神世界を表象した一面の霞んだ風に揺れる草原、通奏低音のように響く不協和音、精神疾患の直子の取り乱す姿など印象的な映像・音響や台詞が頭から離れず、暫く何もする気が起きませんでした。

<死は生の対極としてではなく、その一部として存在している>とはどういうことなのだろうか…。

長い時間ベッドに横になって考え込みました。

大画面であるほど楽しめるアクション映画とは全く異なる心象風景を描いた文学作品です。映画館ではなく、レンタルDVDを自宅で見たのは正解でした。

 

そして原作を25年ぶりに読んでみました。

国内小説累計発行部数1000万部超で歴代1位の記録を更新し続けているだけのことはあります。

大学生の頃に読んだときには、なぜベストセラーになるのか理解できなかったのですが、年月を経て私も成長したのでしょう。

ノスタルジックな時代背景をベースに愛と苦しみ、生と死、永遠と刹那といった普遍的なテーマを扱った<究極の純文学>であると感じました。

主人公の僕(ワタナベ)を中心にキズキと直子、直子と緑、直子とレイコ、永沢さんとハツミという何重もの三者の関係の中で大学生ワタナベの揺れ動く心理の綾や葛藤を浮き彫りにした見事な作品です。

 

ハンブルク空港に着陸する飛行機の中でビートルズの「ノルウェイの森」のメロディーを聞いて僕(ワタナベ)は混乱し、

――何故彼女が僕に向かって「私を忘れないで」と頼んだのか、その理由も今の僕にはわかる。もちろん直子は知っていたのだ。僕の中で彼女に関する記憶がいつか薄らいでいくであろうことを。だからこそ彼女は僕に向かって訴えかけなければならなかったのだ。「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」と。

そう考えると僕はたまらなく哀しい。何故なら直子は僕のことを愛してさえいなかったからだ。――

こうして小説は、18年前の回想に入ります。

 

僕(ワタナベ)は、直子が僕のことを愛していなかったと断言していますが、本当に直子はワタナベのことを愛していなかったのでしょうか。

精神疾患(症状からみて間違いなく統合失調症)の直子が自分の死を予感していたとしても、恋愛感情とは両立しないものではありません。

単に支えてもらいたいなどといった感情ではないはずです。

奥底から湧き出る直子の心の叫びを聞けばわかります。

直子の20歳の誕生日のワタナベの言動が直子の病状を悪化させた要因の一つであることは間違いありません。

私は、僕(ワタナベ)が直子を失った喪失感や罪悪感から逃げているだけなのであり(深層心理からの逃避)、直子は、幻聴や混乱に苦しみながらもワタナベを心の底から愛していたのだと思います。

 

「ノルウェイの森」に浸った週末でした。

(横井盛也)

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