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弁護士の日記帳

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受験回数制限についての反論に対する再反論

元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記さんが、<「受験回数制限」をめぐる評価の仕方>と題するブログ記事

http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-617.html

で私のブログ記事「司法試験の受験回数制限について」

http://www.law-yokoi.com/blog/?p=543

を取り上げ、コメントして下さっています。

そこで、今度は私が元「法律新聞」編集長さんの意見に対してコメントしたいと思います。

 

元「法律新聞」編集長さんは、概要、

<「5年以内に3回」という期間設定は、司法試験を法科大学院教育の効果測定という位置付けにすることが前提です>

<このカリキュラムできちんと学んだならば、合格できるという前提のもと、それでも3回チャレンジして合格できない者が制度の対象となるところに、制度の妥当性があったように思えるのです>

<「効果測定」の前提を満たしていないのは、現実の法科大学院の方で、彼らこそ、あたかも「有効期限」を設けているような制度を志願者に課す「資格」を疑われてしかるべきではないか、と思えるのです>

として、「改革」全体を見れば受験回数制限を設けることに違和感を覚える、と主張されておられます。

 

確かに法科大学院の教育の効果測定を前提として受験回数制限が設けられた経緯についてはそのとおりなのでしょう。

また、司法試験の目的が法科大学院教育の効果測定であるとするならば、法科大学院の修了認定自体が事実上破綻していますから前提自体が揺らぐ感は否めません。

しかし、経緯や理念がどうであれ司法試験を法科大学院の教育の効果測定と一対一で結び付ける必然性は全くないと思います。

 

私は、法科大学院で2~3年学び修了認定まで受けて(修了認定が甘すぎることは大問題ですが)、その後5年間に3回も受験機会が与えられたにもかかわらず合格できなかった者が制度の対象となるところに受験回数制限の妥当性を十分に見出せると思うのです。

法曹の仕事は、常に一定程度の法律知識が必要ですが、それよりもむしろ未知の問題に直面したとき、いかに短期間に知識を吸収し、問題の本質を深く理解し、適切に問題を解決できるかという能力が要求されているというのが実感です。

だから受験回数制限は、法科大学院修了から5年という期間で合格レベルに達する知識や理解を得ることができたかを判定するための制度と考えるべきです。

 

ちなみに医師国家試験は、医学部卒業が受験資格となっていますが、何も医学部での教育の効果測定を目的とするものではなく、「医師として具有すべき知識及び技術」が備わっているかどうかを判断しています(医師法9条参照)。

 

上記のことから私は、設定された経緯や理念に反するとしても結果として現在の「三振制度」は合理性があり、受験生にとっても社会にとっても有益な制度であると確信しています。

 

次に、そもそも法科大学院を目指す志願者自体が激減しているという深刻な問題についてですが、これは「受験回数制限」とは全く別の問題として捉えるべきでしょう。

志願者自体が激減しているのは、端的にいって修習後の就職難や弁護士の所得減少などの問題を反映したものだと思います。

この点については、また別稿で書きたいと思います。

(横井盛也)

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弁護士の就職難

日弁連新聞1月号に司法修習終了者の登録状況が掲載されています。

昨年12月の2回試験で法曹資格を得た65期2080人のうち弁護士登録したのは1370人に過ぎず、裁判官・検察官の任官を除く未登録者は542人にのぼっています。

一括登録時点の未登録者は、新60期が32人、新61期が89人、新62期が133人、新63期が214人、新64期が404人と年々増加しており、就職難は数字の上からもはっきりと読み取れます。

 

一度ぶっ壊して新たな仕組みを作ろうとした司法制度改革の失敗の結果というほかありません。

 

即独や軒弁といった形態が増え、日弁連や各単位弁護士会は、経験の少ない若手へのOJT研修を行うなどの支援を強化する意向のようです。

しかし、私は、こんな小手先の中途半端な支援なら、しない方がマシだと思います。

 

弁護士の実務能力は、経験を重ねることで培われるのであり、イソ弁としてボスの下で仕事を学ぶ必要があると思います。

私は、イソ弁時代、何ものにも代えがたい貴重な体験をさせてもらったとボスに深く感謝しています。

 

かつて旧司法試験時代、合格者は長らく500人程度という時代が続き、平成3年頃から漸増しましたが、1500人を超えたことはありません。

即独、軒弁といった概念すらありませんでした。

ほとんどの弁護士は、ボスの下で朝から晩まで修業して仕事のイロハを学び、社会を知り、それから頃合いを見て独立するなどしていったのです。

私は、これが弁護士養成の正しい姿なのだと思います。

 

例えば、医師の世界において、資格取得後いきなり独立開業ということは考えられません。病院で何年も先輩医師の指導を受け、カンファレンス等で厳しく鍛え上げられ、医師として成長していくのです。一流と言われる心臓外科医は、何年も先輩医師の助手を務めるなどして技術を磨いています。

誰も、試験に受かって多少の研修を受けただけの新人外科医に心臓手術をしてもらいたくないはずです。

 

日弁連や各単位弁護士会は、多少のOJT研修で実務能力が身に着くといった幻想を抱いているようですが、実務能力は、何十件、何百件と実際の案件をこなすことで培われるのだと思います。

次から次に仕事に追われ、必死になってそれと向き合うといった経験が必要なのです。

 

社会の法律家に対する需要(社会全体の案件数)が増えていないにも関わらず弁護士の数だけが増えています。

国選弁護人の仕事を求めて大勢が群がっている様は、ある意味改善ですが、ある意味異常です。

仕事がないのに弁護士の能力が高まるはずはありません。

 

以上の次第で私は、弁護士養成の正しい方法が確保される程度、つまりイソ弁として修業が積める環境が整う程度まで、司法試験の合格者数を減らすことが必要だと思います。それが無理ならば2回試験の合格者数を減らすこと、さらにそれが無理ならば弁護士登録数を抑制することが必要です。

 

日弁連発行の司法改革パンフレット2011年度版「司法改革Q&A」http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/sihoukaikaku.pdf 

に、「法科大学院修了者の一部には法律基本科目の知識・理解が不十分で、法曹に求められている最低限の「質」を備えていない者も見受けられること、期間が短くなったことから法律実務家としての技能・倫理を磨かせることを目的とした司法修習がその役割を十分に果たせていないこと、若手弁護士の急増から新規法曹のOJTが不十分なこと等の問題が明らかとなり、これらの問題の克服が課題」とあります。

 

法曹に求められる最低限の「質」を確保できない弁護士の跋扈を許す日本弁護士連合会に自治など認められようはずはありません。

(横井盛也)

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司法試験の受験回数制限について

司法試験の受験回数が、「法科大学院修了または予備試験合格後5年以内に3回まで」とされていることについて、制限を撤廃ないし緩和すべきとの意見も多いようです。

 

しかし、私は、「5年以内に3回まで」という部分については、絶対に維持すべきだと思います。

司法制度改革において、唯一成功した改革は、この受験回数の制限であるとさえ考えています。

 

かつての旧司法試験は、受験資格に制限はありませんでした。

法務省の資料(トップ>審議会等>その他会議>法曹養成制度検討会議>第6回会議>事務局提出資料)によると、例えば、平成16年(2004年)の司法試験の出願者は49,991人で合格者は1,483人。合格率は3.0%でした。

そして、合格者の受験期間で最も多いのは、「3年目」と「10年目以上」が拮抗して約250人ずつ、次いで「4年目」と「5年目」が約200人ずつ、そのあと「6年目」、「7年目」、「8年目」、「9年目」と続いて「1年目」はほんの僅かです。

 

つまり、約5万人もの受験生が合格率3%程度のバクチのような試験のために、長期間、猛烈な試験勉強をしていたのです。

そして、大半の受験生は、挫折と失望を経験し、結局報われなかったのです。

就職の機会を逃した人、あるいは結婚・出産の機会を逃した人なども多数いたに違いありません。

 

並大抵の努力で10年以上も受験勉強を続けることはできません。

20代や30代の1年は貴重です。80代、90代の数年分に匹敵する価値があるかもしれません。

勉強したくてしているのだから本人の自由と言ってしまえばそれまでのことですが、多くの有為な若者が、本来、社会に貢献することで自己実現を図り、社会経験を積んで大きく成長すべき青春時代を受験勉強に費やすことの社会的損失は、決して無視することはできないと思います。

 

10年目に合格するのであれば、1年目に合格させた方が、本人にとっても社会にとっても、ずっと有益です。

10年目に合格した人よりも3年で諦めた人の方が優秀だったかもしれません。

10年以上も受験勉強を続けて結局合格しなかった人は、もっと早期に諦めて転進した方が幸せだったといえるのではないでしょうか。

 

受験回数を制限すれば、ベテラン受験生は存在しなくなり、受験者数が減ることの恩恵を全員が平等に受けることになりますし、早期の転進も図りやすくなります。

現に、受験回数が制限されてからは、「1年目」の合格率が最も多く、年数が増えるに従って合格率は低下しています。

「6年目」以降は存在せず、否応なしに転進が可能となる仕組みです。

 

こんな理由で、私は、「5年以内3回まで」の制限は絶対に堅持すべきだと考えています。

なお、「法科大学院修了又は予備試験合格」を受験資格とすることについては、いろいろと思うところがあるのですが、また別の機会に書きたいと思います。

(横井盛也)
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福沢諭吉の「学問のすすめ」

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。

 

この際、恥を忍んで告白します。

「學問のすゝめ」の冒頭のくだりのみの生半可な知識から、青空文庫でたまたま原文を目にするまでずっと福沢諭吉は、楽観的な平等主義者なのだと思い込んできました。

 

しかし、明治を代表する大啓蒙思想家は、「皆が平等だ」などとうつつを抜かしていたわけではありませんでした。

 

冒頭の一文は正確には、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」で、「云へり」は、ウィキペディアによるとアメリカ合衆国の独立宣言を引用して「そう言われている」との意だそうです。

だから、単なる引用である「人の上に人を造らず…」というのが福沢諭吉の名言として人口に膾炙していること自体おかしいのです。

 

肝心なのは、この後に「されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有樣雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と続き、「賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來るものなり」と説いていることの方なのです。

そして、諭吉先生は、日常的に利用価値のある実学を身につけるべきだと論を進めていきます。

 

つまり諭吉先生は、平等ではない現実を直視して憂いた上で、平等な世の中にするために学問をしましょう、と言いたかったのです。

 

生半可な知識は、トンチンカンな誤解を生じるということを肝に銘じた次第です。

日常的に利用価値のある正確な知識を得るべく実学に励みたいと思います。

(横井盛也)
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医療における自己決定権

昨年、患者の自己決定権を侵害したとして70万円の支払いを命じる一部敗訴判決を受けたのですが、未だ納得できない思いを引きずっています。

医療機関側の代理人としていくつも医療訴訟をしていますが、一部でも敗訴の判決を受けたのは初めてのことです。

治療に過失はないこと、治療や説明義務と損害の間には因果関係が認められないことについての立証を尽くし、「請求棄却」を確信していただけにショックでした。

 

「説明義務違反により自己決定権を侵害した」。

手術療法と保存療法のいずれの適応でもある症例において患者が手術療法を明確に拒んだために保存療法を行ったという事案で、裁判所は、患者が拒否しても医師は手術療法の方が良い予後が期待されることを何度も説明し説得すべきであったというのです。

医療側に説明義務があることも、患者の自己決定権が尊重されるべきことも当然のことですが、でも、何か釈然としないのです。

 

市民社会の成熟に伴って一人ひとりの自己決定権が尊重される世の中になってきました。それはそれでとても素晴らしいことです。

 

医療訴訟の分野においても、エホバの証人輸血拒否事件の最高裁判決(2000年)以後、急速かつ確実に患者の自己決定権を尊重する傾向が強まっています。

エホバの証人輸血拒否事件は、東京地裁が「生命を救うためにした輸血は、社会的に相当な行為で違法性がない」としたのですが、東京高裁と最高裁は、他に救命手段のない事態に至った場合には輸血するとの方針を説明せずに手術を施行し輸血したことは、患者の自己決定権を侵害するとして医療側に55万円の賠償を命じました。

 

果たして、この最高裁判決は正しいのでしょうか。

輸血をすれば助かるのに輸血を拒否する自己決定権は、自己決定権の自己否定なのではないか、という素朴な疑問が頭から離れないのです。

自己決定権の本質として、自分自身で何かを決定することにその意義があるのであれば、自己決定権の存在自体を脅かす行為が許されてよいのでしょうか。

つまり、死ぬことで当人の自己決定権がその後全く無に帰すような場面において自己決定権が認められてよいのか、ということです。

 

そして、患者の意思を尊重するという美名のもと、医師の良心を酷く傷つけることになりはしないのか、ということを考えるのです。

患者を救おうと日々命を削っている医師が、目の前で死にゆく人を見殺しにすることを強制される理不尽に耐えろと裁判所は言っているようです。

 

患者の自己決定権は大切です。でも、医師の良心や裁量も同様に尊重されるべきだと思うのです。

(横井盛也)

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