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横井先生の記事

裁判はスポーツですか?? - 訴訟とチェスとオリンピックの関係

2020年の東京オリンピック・パラリンピックの追加種目一次選考で、野球・ソフトボール、ボウリング、空手、スカッシュ、サーフィン、武術、ローラースポーツ、スポーツクライミングの8種目が通過し最終選考に駒を進めた、と報道されています。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDH22H1Z_S5A620C1000000/

 

一方で落選したのは、航空スポーツ、アメリカンフットボール、ビリヤード、ペタンク・ブール、ブリッジ、チェス、ダンススポーツ、フロアボール、フライングディスク、コーフボール、ネットボール、オリエンテーリング、ポロ、ラケットボール、相撲、綱引き、水中スポーツ、ウエークボードの18種目。

 

<落選した「チェス」って、あの「チェス」?> ―― <そう、あの「チェス」なのです>
ウィキペディアによると、「チェスは2人で行うボードゲーム、マインドスポーツの一種である。先手・後手それぞれ6種類16個の駒を使って、敵のキングを追いつめるゲームである。その文化的背景などから、チェスプレイヤーの間では、チェスはゲームであると同時にスポーツでも芸術でも科学でもあるとされ、ゲームに勝つためにはこれらのセンスを総合する能力が必要であると言われている」とのこと。
<ゲームであると同時にスポーツでも芸術でも科学でもある> ―― <ふーん、そうだったの。知らなかったわっ!>

 

聞いたこともない種目もたくさんあります。
「ブリッジ」 ―― トランプの「ブリッジ」なのです。
頭脳をフル回転させて戦うから「マインドスポーツ」なんだとか。
―― <スポーツっていったい何なの? 五輪って何の祭典なの?>
イメージが根底から揺らぎます。

 

頭脳をフル回転させて戦う「マインドスポーツ」というのであれば、訴訟による法廷闘争なんかも立派なスポーツと言えそうです。
矛盾点をついて一気に畳み掛ける尋問や微妙な駆け引き、特に裁判員裁判では、身振り手振り等の肉体パフォーマンスを使った裁判員への説得なんかも行われますし、法廷には傍聴席もあって観戦環境も整っています。

 

体力も根性もない根っからのヘタレ。
スポーツとは縁がないと諦めていましたが、私も立派なスポーツ選手なのかもしれません。(#^.^#)
(横井盛也)

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元少年Aの手記「絶歌」・神戸連続児童殺傷事件 - 書店の販売自粛と表現の自由

1997年に神戸市で起きた連続児童殺傷事件で当時14歳だった元少年Aの手記「絶歌」(太田出版、1500円)が波紋を呼んでいます。
遺族らの感情に配慮して、書店が販売を自粛したり、図書館が購入や貸出しを見合わせたりする動きが広がっているようです。
入手困難となる前に購入し読んだ感想は、≪違和感を拭えない≫というものです。

 

中学校正門に男児の頭部が置かれ、その口に「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る犯行声明文が挟まれていた――残虐な猟奇殺人に戦慄を覚えたものです。
2人の児童を殺害、3人の児童に重軽傷を負わせた少年はその約1ヶ月に逮捕されますが、その間、地元新聞社に不敵な挑戦状が届くなど異様な展開を見せ、地元住民は恐怖のどん底に叩き落されます。
私は当時、社会部の9年生新聞記者。
逮捕当日、神戸から続々と送られてくる原稿を受稿しながら、被疑者が14歳の少年であったことに大きな衝撃を受けたことを覚えています。

 

どんなに冷酷非情なモンスター、完全無欠の殺人マシーンであっても、法に則って裁きを受け、刑罰や保護処分を終え、更生したのであれば、社会に復帰して平穏に生活する権利があるはずです。
悔い改めた犯罪者の社会復帰や更生を妨げるようなことがあってはいけません。
少年法61条の趣旨は成人にも妥当するはずであり、事件報道は少年に限らずすべて匿名にすべきというのが、私の持論です。
そして、社会復帰したのであれば、手記を書くことも自由だと思います。
表現の自由は、どんなことがあっても守るべき基本的人権の一つです。
書店や図書館は、国民の知る権利に応えるべきであり、販売自粛などすべきではありません。読むかどうかは国民の選択に委ねるべきです。

 

でも、そんな理屈とは裏腹にもやもやとした違和感を禁じ得ないのです。
何か大切なものを冒涜されたような読後の不快感がまとわりついて離れません。

 

事件報道は匿名にすべきです。
でも、社会復帰して自らの意思で手記を出版するのであれば、そのときは堂々と顔と名前を出すべきです。
自らを「元少年A」としながら、被害者や遺族の実名を晒すのは卑怯です。
表現の自由は無制限ではない、といった法的な問題ではなく、道徳的な問題として、そう思うのです。

 

「被害者のご家族の皆様へ」と題したあとがき。
「皆様に無断でこのような本を出版することになったことを、深くお詫び申し上げます」、
「本を書けば、皆様をさらに傷つけ苦しめることになってしまう。それをわかっていながら、どうしても、どうしても書かずにはいられませんでした。あまりにも身勝手すぎると思います」
そんなことを言うくらいなら、出版すべきではありません。
「自己の過去と対峙し、切り結び、それを書くことが、僕に残された唯一の自己救済であり、…僕にはこの本を書く以外に、もう自分の生を掴み取る手段がありませんでした」
意味不明です。あなたの自己救済など誰も望んでいません。

 

6年5ヶ月間の少年院での生活を終え2004年に社会復帰して既に11年。
もう32歳の立派な大人なのです。

 

社会で平穏に生活する権利を与えられた以上、おとなしく平穏に暮らすべきです。
「元少年A」と自らプライバシーを守りながら、被害者やその家族の平穏を乱すことは許されません。
DSC_0584

 

過去の当ブログです。
http://www.law-yokoi.com/blog/?p=1145

(横井盛也)

 

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日本国憲法改正について 8

国会で集団的自衛権の行使容認を盛り込んだ安全保障関連法案が合憲か否かについての”神学論争”が続いています。
現行憲法9条の解釈をめぐる論争は、ことあるごとに繰り返されてきました。
現行憲法の抱える構造的な欠陥であり、今後も知的アクロバットを駆使した無用な論戦が繰り広げられることは間違いありません。
日本も自立した普通の国になるべく、今こそ、憲法を改正すべきです。

 

そもそも1946年6月の第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案特別委員会において吉田茂内閣総理大臣は、
「第9条第2項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も抛棄したものであります。従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争然りであります」
と自衛権すら否定するような発言をしています。

 

1950年に朝鮮戦争が勃発し、米ソの冷戦が深刻度を増す中、ポツダム政令により警察予備隊が組織され、1954年に自衛隊が創設されるのですが、当時の憲法学者は、そのほとんどが自衛隊の存在を違憲と考えていました。
そして現在よりもずっと多くの市民が自衛権の存在に懐疑的な思いを抱いていたのです。

 

しかし、「戦力をもたない軍隊」といった矛盾を抱えながらも自衛隊は、その後もその存在意義を増し続け、今となっては自衛権を否定するような現実離れした言説は聞かれなくなりましたし、自衛隊の存在に疑問を挟む議論もなくなりました。
自衛隊は、国際社会のリスクと真剣に向き合うことで我が国の平和と安全に大きく貢献してきたのだと思います。

 

この間、国際情勢の変化の中で、PKO法、周辺事態法の成立に際してぎりぎりの憲法解釈論議が行われてきました。
憲法解釈は国際情勢の変化の中で変遷することは当然であり、伝統的な解釈に拘泥し続けるだけでは、平和や安全は守れません。
中国が軍備を増強し、北朝鮮が核やミサイルの開発を進める中、米国を軸としたパワーバランスは崩れつつあります。
我が国を取り巻く情勢は刻々と変化し続けているのです。

 

集団的自衛権は、砂川事件最高裁判決のご都合主義的な曲解によらなくとも現行憲法の解釈によっても可能だというのが私の持論です。

 

現行憲法は、その前文で「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と平和的生存権を謳っています。
平和を我が国の安全という視点だけでなく、全世界の国民の権利と捉え、積極的に世界の平和を構築していくことを宣言しているのです。
そのために最大限の努力をすべきことは当然のことであり、武力攻撃を受けた国家を他国と協力して共同で防衛を行うこと、すなわち国連憲章51条で明文化された集団的自衛権を行使して世界の平和に貢献することは理に適ったことだと思うのです。

 

といっても、これも独自の知的アクロバットに過ぎません。
神学論争に決着をつけるべく、憲法を改正すべきです。

 

日本国憲法改正についての過去の当ブログです。
http://www.law-yokoi.com/blog/?p=622
http://www.law-yokoi.com/blog/?p=642
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http://www.law-yokoi.com/blog/?p=741

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(横井盛也)

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少子化が止まらない - 若者に厳しい社会

≪平成26年に生まれた子どもの人数は100万3532人で過去最少。
合計特殊出生率は1.42と9年ぶりにマイナスに転落。≫
厚生労働省の人口動態統計(概数)の発表に憂慮の念を抱かずにはいられません。
昭和24年生まれが約270万人、昭和48年生まれが約210万人。それに対して、
平成26年生まれは約100万人。
余りに少なすぎます。

 

少子化の進展は、国力の減少に直結します。
将来ボディーブローのように効いてくる切実かつ現実の課題なのです。

 

一流企業総合職の20歳代の既婚女性Kさんは、大阪に単身赴任中です。
同様に籍は入っていないものの20歳代の女性Sさんも今は大阪で勤務。
2人とも週末に東京と大阪の間を往復しています。
新卒3年目の大阪の法律事務所女性事務員のOさんは、将来を約束したメガバング勤務の彼氏に会うためほぼ毎週のように九州まで旅をしています。
このほか、法科大学院を出て弁護士になったものの既に30歳直前。奨学金の多大な債務を抱えた上、覚えなければならない仕事も多く、結婚どころではない、といった女性を何人も知っています。
こんな酷な現実を放置していてよいのでしょうか。
女性にとって、結婚適齢期はなくとも出産適齢期は存在するのです。

 

組織を活性化させ、将来の幹部候補に様々な職場を経験させるということは企業にとってもその社員にとっても有益なことなのでしょう。
夢見る職業で成功するため、今を犠牲にして将来に託すことは崇高なことなのかもしれません。
でも、そのために失うものの大きさも考えるべきです。

 

若い労働力が減少することは、企業活動の活性化を妨げ、技術力やイノベーションの低下をもたらし、個人消費は減って経済規模は縮小し、日本の経済力が低下することにつながります。
このまま少子化が進めば、社会保障は破たんし、税収減から生活基盤の維持すら困難になる事態すら想定されるのです。

 

配慮に欠けた転勤命令、長時間労働、低賃金の非正規雇用、貧弱な子育て支援体制等々、問題は山積していますが、これらは自由競争市場に任せることで解消される問題ではありません。
利潤の極大化を目指す企業にとっては、若者の転勤をフリーハンドで命じることができれば、より最適な人事政策が可能となります。
多少の残業コストがかかってもそれ以上の利益が出るのであれば長時間働いてもらった方が得ですし、非公式な情報のやり取りなどもしやすくなります。
非正規雇用によって低賃金で済むのであれば、それを景気の調整弁として使おうとする動機が生じることは当然のことですし、利益に見合わない子育て支援体制にコストをかけるというインセンティブも生じません。

 

個々の企業や団体、地方自治体等の努力だけで解決できる問題ではありません。
国が本腰を入れて取り組むべき政治の課題だと思いますし、国民の間で議論を深めるべき問題なのだと思います。
(横井盛也)

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「法曹人口の在り方について」3 - マルサス『人口論』から読み解く法曹人口問題

政府方針となる「法曹人口の在り方について」は、今後とも法曹人口を増加させるべく司法試験の合格者が1500人を下回ることのないよう必要な取組みを進める、というものです。
http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/hoso_kaikaku/dai20/siryou5.pdf

 

現状認識が誤っており将来の展望が甘すぎます。
この国の役人、弁護士、学者らに将来を見通す力が欠けています。
それのみならず、歴史や古典から学ぶ力も欠けていると思います。

 

英国の古典派経済学者トマス・ロバート・マルサス(1766年~ 1834年)の名著『人口論』(1798年)は、社会と人口の関係について鋭い指摘を行っています。
(名前は似ていますが、「マルクス」とは、まったくの別人です。)
確かに「人口論」が著された時代には、避妊といったことが不可能であるなど社会環境が大きく異なっているため同書をそのまま現代に当てはめることはできません。
しかし、その社会における人口が適正でないことが、その社会に様々な歪みや害悪をもたらすことについての指摘は現代でも妥当するのだと思います。
過剰人口の災厄は、人類が生命体である以上、神から与えられた永遠に克服すべき試練であり続けるのです。

 

マルサス『人口論』の前提は次の2つです。
第一は「人間の生存には食料が必要」、 第二は「人間の情欲は不変」。
誤解を恐れず極々簡単に整理すれば、ここから、次のような論理が展開されています。
<人口は幾何級数的に増加するが食料は算術級数的にしか増加しないから、人口は常に食料の水準を越えて増加する。
この結果必然的に不均衡が発生する。
不均衡が発生すると、人口増加を抑えようとして貧困、飢饉、戦争、病気、退廃や晩婚化・非婚化による出生の抑制が起こる。
人口増加の継続が、食料の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。
実際の人口を食料と同じレベルに保たせるのは、貧困と悪徳である。>
<そしてマルサスは言うのです。「人口が増加するか、停滞するか、それとも減少するかは、まさしく人々の幸福、あるいは不幸の度合いに依存するのである。」と>

 

人口増加を抑制するものは、貧困、飢饉、戦争、病気といった死亡率を上げるもの(積極的妨げ)と計画的な避妊、晩婚化・非婚化による出生の抑制といった出生率を下げるもの(消極的妨げ)に分けられます。
前者を避けるために後者を選択すべきであることは明白です。
世界史における戦争の契機の多くは人口膨張圧力によるものであり、人類は永く戦争と疫病によって生態系における適正人口を保ってきました。
最近になってやっと人口増加を抑える避妊法を開発し出生の抑制を可能とし、不均衡に対する積極的妨げを回避するようになりました。
神の試練を一つ乗り越えたのだと思います。

コンドームが世界の平和に大きく貢献しているのです。

 

『人口論』に法曹人口に当てはめてみれば、次のようになると思います。
≪法曹人口は政府方針によって不可避的に増加するが、日本の人口は減少に転じており案件は増加しない(どころか減少する)から、法曹人口の供給は常に需要の水準を越えて増加する。
この結果必然的に不均衡が発生する。
不均衡が発生すると、法曹人口増加を抑えるべく法曹の貧困、飢饉、犯罪、病気、退廃、【本来なら新たな法曹の供給に対する抑制】が起こる。
法曹人口増加の継続が、生活資源の継続的な不足をもたらし、したがって重大な貧困問題に直面することになる。
実際の法曹人口を食糧と同じレベルに保たせるのは、貧困と悪徳である。≫

 
仮に司法試験の合格者が毎年1500人でも9年後に弁護士の人口は5万人を超えるのです。
飽和状態の現在よりさらに法曹人口増加を目指す(避妊を試みない)など、正気の沙汰とは思えません。
(横井盛也)

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